**麻雀蒐穂録**

マージャンとはギャンブルとはゲームとは…そしてプロとは…!

遠い昔、歌舞伎町のけもの道を徘徊していた 畏怖るべきアウトロー達との交遊を
途切れた記憶の糸を紡ぎながら回顧録まがいに書き起こそうと思います。

 ※実体験以外に風聞や創作も加味するつもりです。フィクションとしてお読み下さい。

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フェルマーの最終定理

平日の暇な時間にちょくちょくネット麻雀で遊んでいる。
天鳳を打っているのだが、段位やレートには関心がないから、
わたしのIDの使用は自由で数人が使い回して遊んでいる。
中には負けると熱くなって必死に打ち続ける変わり者もいる。
ネット麻雀で熱くなれるという心理状態はいまいち分からないのだが、
コンピューター・ゲーム世代の性なのか…?
勝敗に合わせて金銭が動くリアルならどうなるのだろうか…?
案外、自前の金が懸ると冷静に打てたりするのかも…ね。
玉が切れた時点で、
「参りました。出直します…」って言うほかないし…(>_<)


そんなネット麻雀での究極の展開をひとつ。

天鳳で保存牌譜の検証をすることは滅多に無いのだが、
打ち終わって違和感を覚えたときは流れを追ってみることもある。
どういう場合かと言うと、感覚的なもので説明はできないのだが、
以下のような展開のときだ。


kkdahai1

オーラスで私は37400点のトップ目だが、
前局に和了をものにして10000点弱の差まで追い上げた対面から、
6順目にリーチがはいった。

一発目の私のツモはドラの一ピン…!

あなたなら何を切りますか?
あたし…ノータイムで九マンを切ったの…。

開いてるから分かるだろうけど、
対面の待ちは三六九マンだったのよね。
で、「ロン!」リーチ一発って…。

アチャー!!
上家も浮いてるから三着まで落ちたかと思った。

でも、裏ドラは無かったから2600だけで済んで、
順位は変わらなかった。
ツイてると思ったんだけど、ふっと違和感を覚えたの。

だから山を開いて見たわけ…。

kkdahai2


どうよこれ、よく見て。
一発で九万を振らないと…
一発で六万をツモられて逆転されてるよ。

麻雀はフェルマーの最終定理…整数解が無い。

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エンブレム

enblem

この図形を御存じですか?
そう、これは、いわゆる太極図といわれる図形のひとつです。
対極や対局ではありませんよ。太極拳の太極です。間違いの無いように<`ヘ´>

では、以下の太極図関連事項のうちのどれに該当する図形でしょうか。

①インド仏教哲学
②易経陰陽道
③儒学朱子学
④韓国国旗
⑤相対性理論
⑥量子論
⑦ゲームの理論
⑧麻雀の哲学…(-_-;)


ヒントは…。
太極図という観点からはどれに当てはめても間違いでは無いんですが、
それぞれ色彩やデザインは微妙に異なるんですよ。
で、この色彩と図柄はエンブレム用――さる有名な人物の紋章なんです。

私は以前からそれがどんなデザインの紋章なのか知りたかったのですが、
先日、たまたまネットで実物の写真を発見しました。
コピペしようと思ったけど、写真には版権があるからね。
仕方が無いからそれを参考に自分で描いたわけです。
この麻雀ブログにUPするために…。



そういうわけで答えは⑧の麻雀…いや、済みません(-_-;)

正解は⑥でした…私は⑧にしたいのですが(>_<) 

これはアインシュタインの論敵、コペンハーゲンのボーアの紋章です。
量子の相補性という仮説を表現した太極図のエンブレム。
この紋章に纏わるボーアの話を知りたい方は…自分で調べて下さい。

あ、調べても意味不明な方、それで良いんです。
今回のテーマは、不可解は大いに結構ということなんですから…。

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麻雀の正解(6)前編

―オープン麻雀―

二十歳前後のある時期――
変わったルールの麻雀に興じていたことがあった。

当事の私は小田急線の参宮橋駅に近い友人のアパートで、
友達の輪のような仲間内の麻雀に明け暮れていた。

まだ、麻雀牌が質草になるほど貴重品だったころで、
その友人の部屋はそこに麻雀牌があるというだけで、
暇はあるがカネが無いといった学生たちが出入りする、
雀狂仲間の溜まり場になっていたのだ。

多いときには20人前後の仲間が出入りしていた。
ほとんどがノンポリで学生運動とは無縁のはずだったが、
なぜか(革)と印された白いヘルメットが一個だけ、
誰のものか判らないまま、
狭い玄関の隅に置き去りにされていた記憶がある。

夏の盛りにクーラーも無い部屋で全員がパンツ一丁になり、
流れる汗を拭きながらひたすら牌を掻きまぜていた。

仲間内では一応のレートを決めてはいたが、
みんなカネが無いから麻雀をするわけで、
勝ち負けの清算は集計表を兼ねた専用の大学ノートに、
日付と貸借の金額を記帳して済ますことが多かった。

メンバーの誰かにバイト料や仕送りなどの現金が入れば、
麻雀の清算よりも、まずその場の食料の調達に充てていた。
それから仲間内の貧民救済と清算に充てられるのが常だった。
何人かで同じバイトに就いて稼いでいたこともあった。
全員の小銭を寄せ集めてインスタント・ラーメンを買ってきては、
ひとつの鍋で回し食いをするのも当り前の習慣になっていた。

金が無くても、いつも陽気に笑いながら牌を叩いていた。
明日の生計の当てがなくても、何の不安もなかった。

戻れるものなら、あの頃に戻りたいと思う。
人生をやり直すためではない。
ただあの日々をもう一度…それだけのためだ。

そんな居心地の良い部屋でも、面子が揃わないこともある。
そんなときは人数に合わせていろいろな遊びを実践していた。
カードや花札で遊んだような記憶もあるが
やはり牌を使って遊ぶことが多かった。
サンマはもちろん、二人麻雀やトッパン(10,5)、牌ホンビキ、
二角取り、独り麻雀といったところだ。

相手がいない独り麻雀は遊びとしてはつまらない。
ひとりで山を積み四人分の手作りを試みるだけのことで、
独り芝居のままごと遊びのようなものだ。
捨て牌相と手牌の構成を考える一助にはなったと思うが、
それも基本的な牌理を理解する程度に過ぎなかった。
手積で全部の山を積む作業も面倒で、すぐに飽きてしまう。
だから独り麻雀は退屈な時間の暇つぶしでしかなかったのだ。

その下らない遊びの延長線上で、
「一局の正解」を意識するという発想が生まれたといえる。

きっかけは、四人リーチを流局なしのルールにしていたのと、
そのころ巷の雀荘で流行りだしていた、自摸宣言ルール、
いわゆるオープンリーチという新ルールの採用だった。

知っての通りオープンリーチは手牌の一部を公開して、
待ちを公表し、他家からの振込みを拒否するリーチだ。
私達はそのルールを取り入れてからというもの、
色々と新手のルールを考案して遊ぶようになったのだ。

元より、仲間内だけの面白半分のルールだったが――
まず、オープンリーチは手牌13枚全部を公開することにした。
その後、オープンリーチの後の追っ掛けリーチはすべて
オープンリーチにするという変則ルールが追加された。
その結果、リーチはほとんどオープンリーチになり、
複数で手牌を公開して戦うような局面が多くなった。

三人がオープンした場合、残りの一人も手牌を開いてしまう。

そして変則ルールは次第にエスカレートしていく。
配牌を取り終えた時点でそれぞれの手牌を全部表向きにして
始めから相手の手が見える状態で戦うことにしたのだ。
早い話が独り麻雀の手順を四人の闘牌で進めるようなものだ。
仲間内では「オープン(麻雀)」とよんでいた。
「オープンでやろう」といった具合だ。

リーチは当然オープンルールで、振込みは役満扱いになるが、
リーチ者の振込みは通常の支払いで済むことにしていた。

相手の手牌が見えれば仕掛けも押し引きも楽にできる。
単調なゲームになると思うだろうが…そうはいかない。

自分の手の内もガラス張りになっているのだ。
通常は出易いような牌でも止められて鳴くこともままならない。
混一色や対々形での早仕掛けは極端に不利になる。

筋の引っ掛けや河模様、地獄待ちの単騎やワンチャンスなどの
嵌め手好手も、手の内がガラス張りでは意味がない。

ダマ聴にしていてもリーチ者以外からの振込みは期待できない。

手作りも和了も自摸への依存度が異常に高い麻雀になるのだ。

そして一摸一打に相手三人の手牌を意識した選択を強いられる。
危険牌の先切り、面子の入れ替え、キー牌の処置など、
相手の牌姿が見えているためかえって難しい判断を迫られる。

この変則麻雀の醍醐味は聴牌直前の攻防、進退の綾にある。

お暇な方は仲間を誘ってこのルールで遊んでみれば良い。
牌の流れを見ながらの遊びは結構面白い。
一摸一打に笑えるような展開が続出するはずだが、
四人で戦うということがどういうことなのかが良く解る。
真剣に打てば麻雀の真髄に触れられる…かも知れない。

オープン麻雀は、全員が打ったわけではない。
四人が揃っていてこのような変則ルールで打ったのは、
それが好きなメンバーが揃ったときだけだった。
あとは、三人しか揃わず面子が足りないがサンマは嫌で、
四人麻雀の手順で打ちたいといった特殊な場合に限って、
このルールで打つことが多かった。

始めの頃は考え過ぎて疲れる麻雀だったが、
慣れるに従って楽な麻雀だとも思えるようになった。
要所を押さえながら、手詰りまで好きなように打てば良いのだ。
イヤでも見える場況によって、
各々の進退が必然的に決まってしまうからだ。

まあ、序盤から手詰りになることもあるわけだが…
進退の答えが解ってしまうと、もうつまらない。
普通の麻雀のオープンリーチでもよくあることだが、
役満の聴牌もオープンリーチの当たり牌を掴んだら、
否応なく降りなければならない。
振り込んだら終わりだから、それがゲームの正解だとしても、
なんとも不快なのだ。振り込みたいと思うことさえある。
勝負としては振り込んだほうがスッきりする。
待ちが見えて振り込みのない麻雀などつまらないのだ。
ゲームとしては味気なく、決して面白いとは思えない。

あるとき、中盤で四人が立て続けにリーチをかける展開となった。
四人リーチは流局無しのガチンコというキメだったので、
全員で、早い者勝ちのめくり勝負になったわけだが、
先は長い、いちいちツモっているのは面倒だから
残りの山を開けて誰の和了りが早いのか見てしまえ!
ということになった。

それから間もなく――
将棋が得意なK大生の○山君が真顔で新ルールを提案した。

「なあ、一度、テンから山を開けて打ってみいへんか?」 

麻雀は下手ではないが、引きが弱い男の要望だった。

それが全開麻雀を試みる切っ掛けになったのだ。


長いので、つづきは後編の―全開麻雀―で、

明日の午後9時にUPのタイマーセットにしておきます。

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麻雀の正解(5義)など

『一局の正解』といった自前(?)の用語の説明には、
「運」や「流れ」のような現象表現を使わざるをえない。

通常ならば漠然としたイメージで問題はないだろうが
説明のための用語となれば、そうもいくまい。
誤解を避けるにはそれなりの定義づけが必要だろう。

しかし、それもまた私だけの定義であり自前の解釈でしかない。
前回、言葉の曖昧さについての話をだらだらと書き込んだのは、
同じ言葉でも自分と他人では解釈の仕方が違うのだということを
文章で再認識し、自戒ともしたかったからだ。
小難しい言葉をつかうと間主観性の考慮ですか…w
ようするに、相手への配慮が必要だということですね。

では改めて、当店の用語の能書きなんぞを。

「運」とは
巡り合わせの吉凶現象の意味で用います。
ときには吉祥現象のみを意味する場合もあります。
例…「運が無い」「運が向いてきた」「不運」など。

吉凶現象とは…辞書のままに…ではまずいのか…
現象とはカント(哲)先生流には、
「時間・空間や範疇的諸関係に規定されて現れているもので
 主観の構成が加味されたもの」となります。(広辞苑)
   
つまり、吉凶現象とは
「主観的に吉凶として捉えることができる外面的な表れ」
という意味です。「運」とはその巡り合わせの意味。

「ツキ」とは
良い巡り合わせ、幸運の意味で用います。

「流れ」とは
流動、変位、推移の意味で用います。
川の流れ、時の流れと同じ意味です。
  
が…
一般に麻雀で使われる「流れ」という表現は、
「運」の「流れ」という意味でしょうね。
つまり吉凶現象の動向や趨勢に関わる表現でしょう。

「流れ」が有るか無いかの論争が盛んなようですが、
「運の流れ」が争点ならば陳腐な設問でしょう。
ゲームには「流れ」は有るに決まっています。
無ければ必勝パターンがあるということになります。
そんなゲームはゲームの意味がありません。www

すみません、↑また遊んでしまいました。

木瓜の葉無しは挿しおいて…ん?誤変換?

ボケの話は差し置いて…  うん、これです。

すみません、↑↑またまた遊んでしまいました。

気乗りのしないつまらない作文だから、飽きちゃうのね。


論点は「運」に拘る因果関係の意味の「流れ」でしょうね。
因果Cause and effect.と連鎖反応 Chain reaction.

CHAIN REACTIONか…
そういえば昔、キアヌ・リーブス主演の
そんなタイトルの映画があったよなぁ。
確か、水素核融合エネルギー開発を題材にしたサスペンス。
TVの日曜洋画劇場かなにかで観たような気がする。
映画評論家の淀川長治さんはもう亡くなっていますねぇ。
「素敵ですねぇ『流れ』って本当に便利な言葉ですねぇ~、
 さよなら、さよなら、さよなら…」
え? 何ですと?! 淀川長治をご存じ無い? 

「お呼びで無い?こらまた失礼しました!」←植木等ネ

すみません、↑↑↑またまたまた遊んでしまいました。
ボケのCHAIN REACTION…ですねぇ。


え~と、そうか、「流れ」の有無の話ですね。
しかしですねぇ、吉凶や禍福現象への意味付け(認識)は、
観測者の主観の構成が加味されるわけですからねえ、
「運」にまつわる考察も当然人によって異なるわけで、
初めから共通認識を問うようなものではないわけです。
はい、わけの3乗なわけです…

納豆は美味な豆なのか、腐った食えない豆なのか…
美人の条件にデカパイ…いや身長や年齢や知性などを
入れるか入れないか…のような論争は面白いのですが、
ハナから認識の相違、見解の相違があるわけで…
え~と、芸人の名前は忘れてしまいましたが…
ほら、ギターを「ジャジャ、ジャーン!」と掻き鳴らして、
「……は自由だ~ッ!」と叫ぶピン芸人がいるでしょう、
私、あの方に一票。

確か「性格の不一致」でも離婚は成立するはずですよ。

運の流れ…吉凶現象に対する因果の認識というのは、
個々の感性によって養われる自業自得の知見であり、
俎上に載せて真偽を糺すような類のものではないでしょう。
ベジタリアンを焼肉屋に誘っても肉は食べない…
タイ人のホステスさんの頭を無闇に撫でたら怒られます!
フィリピン人のホステスさんに求婚されたら、まずは、
扶養家族の数と、離婚できる宗派かどうか確認すべきです。

他人様の嗜好や信条に有無はないし是非もないのです。

自得の経験則を頼りに進路を選択するのも信心なら、
所与の測定値を頼りに進路を選択するのも信心です。
鉛筆やサイコロを転がして決めるのもまた信心です。
麻雀はハナからサイコロを転がしますが…
確実なのはひとつだけ…
「一天地六に因果無し」…サイコロの出目に理由は無い。
しかし、
「自前の賽は振り易い」
    

ここで少しだけ、不本意ですが持論(観念論)的なものを…

私は自分でもストイックなタチだろうとは思いますが、
運命論者とか宿命論者ではありません。
楽しければ笑いますし、悲しければ泣きもします。
喜怒哀楽の感情が運命を疑うのです。
「喜樂」は不安を喚起しますが悩むことはありません。
「怒哀」が問題です。
「運」に対する考察は主に怒りと哀しみから生まれます。
自然界の摂理…人間界にとっての不条理への疑念が湧く。
理不尽だと思うのは不幸な結果に不満な時だけ…
賤民による、貧民のための、選民意識でしょうか?
人間とは身勝手な生き物です。
        
自然界の摂理ですが…
モノにはすべて「力」というものが働いているようです。
小難しいナンタラ学の話をするつもりはありませんが、
森羅万象、ミクロの世界からマクロの世界に至るまで、
万物は力のバランスによって成り立っているようです。
実体の無い精神世界といえども肉体に依存している以上、
パワー・バランス感覚に関しては例外ではないでしょう。

「力」は大きさと向きを有する量(ベクトル)で表されます。
動くとは、ベクトルのバランスが崩れるということです。
単純に川(水)の流れは高低差、主力はいわゆる重力です。
[重力の犯人(重力子?) は、いまだに不明のようですが…]
そこに浮かぶ木の葉にも重力や浮力や張力や…etc
血の一滴、脳細胞の一片、感覚世界にも力の作用が及ぶわけです。
因=力(ベクトル)の変化 果=動き(流れ)です。

「運」は主観によって構成される吉凶の巡り合わせです。

ならば、そこにかかる(かかっている)力とはなんなのか…
私にはその黒幕の正体を見極めることはできませんが、
ただ「運」はお金(市場)に似た動きをすると思っています。
その引力と斥力、偏倚と拡散、安定と変化に関しては
精神の表象と現象の磁場でテンションがかかっていると、
自分なりに勝手に解釈しているのです。
ゲーム…勝負の本質とはパワー・バランスの破壊です。
複雑系、ゆらぎ、相乗効果、循環といった展開要素から、
私は彼我のポジとネガの感性バランスの変動を画策します。
もちろん対運策は経験則(主観)であり、私の思い込みです。
ですからこの先何処かで、
私が「運」や「流れ」に関しての特異な記述とか、
なにか独自の因果律などを展開したとしても、
それで他人様に因果を含めるつもりは毛頭ありません。  
私の、私だけの感覚世界ですから…

「オカルト」とは 
もちろんOccult です。
原義は「隠された 神秘的な」という形容詞らしいので、
そのまま「神秘的なこと」という意味で用います。
ある自然現象に対する認識主観の一環でしょうから、
超自然とか非合理という解釈は釈然としないので、  
超常、背理、不合理なことの意味でいいでしょう。

「感性」とは…
済みませんが広辞苑で調べて下さい。
注意…感性の意味内容のすべては飽くまで感性界の範疇であり、
   可想界とは無縁ですから。

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麻雀の正解(5)

空き時間にちょこちょこと記事を書き続けていたら、
集中できずにまとまりがつかない文章になっちまうわけです。
本当は全部書き直したい心境ですが、暇がねえ~のよ。
まあ、いいか…で、適当に順次UPしていきますヮ。




呪文や念仏、寝言の類ならいざ知らず、
凡そ言葉というものは、相手に通じなければ意味が無い。
言葉は語義の共通認識がなければ用を成さないということです。

しかし、軽々しく語義の共有などと言ってはみても、
言葉自体はただの記号であり、文字通りキー・ワードでしかない。
個々のイメージの扉を開くマスター・キーにすぎないのです。
そしてそのイメージとはそれぞれの個人のデータベースに保存されている。
つまり、語義の解釈は百人百様の固有のイメージに委ねられているわけです。

例えば「台所」といったありふれた言葉ひとつにしても、
そのイメージはこの世で台所と認識されるモノの総てに該当してしまう。
当人の自宅の台所は言うに及ばず、狭いアパートの流しや共同炊事場から、
写真で見ただけの豪邸の広い台所、想像上の未来のキッチンにいたるまで、
人は台所という言葉に対し様々なイメージを対応させることが可能なわけです。
しかし、それらのイメージはすべて本人の認識の範囲内のものでしかない。
イメージは知識の枠は越えられるが認識の壁を超えることはできないのです。
人は結局のところ記号の対象は自分の認識でしか捉えられないのです。

言葉に対するイメージはその時の環境や精神状態によっても異なります。
「台所」と聞いただけで反射的に苦しい家計や借金の返済期限など、
身近な経済事情をイメージしてしまう人間もいるわけです。
はぁ?おまえだろうって…? 失礼な! 
私の台所のイメージは…エプロン姿…そう、エプロン一枚の裸単騎。
はい!その通り、言語道断のイメージです! 

話が逸れました… 

まあいいか…、『言語道断』でもおなじこと…
通常、もってのほかだ!とんでもない!といった意味で使われますが、
出典は「仏教の深い真理はことばでは説明できない」という説法用語です。
その原意の「言葉では言いあらわせない(ほど素晴らしい)」という意味で、
古くから感嘆や賞賛の表現にも使われます。
「言語道断!」だけでは賛辞なのか侮蔑なのか判らないのです。

私がほろ酔い気分で女性の部屋を訪ね、エプロン姿の裸単騎を見たら…
当然、「言語道断!」と叫びます…そして後ろから抱きしめ…
……
え~と、言葉とはある種生き物であり、その曖昧さ不完全さを考えれば、
意志の疎通を図る道具としては極めて頼り無く、誤解を招きかねない、
危険を孕んだ記号なのだと、私は思っているわけです。
一方的な書き言葉となれば尚更だろうと…
文章を書く場合には、作者の独り善がりになりかねない言葉…
自家薬籠中の物となっているような用語は極力控えるべきなのだと…

それは重々承知しているのだが…



さて、ありふれた言葉に託した単純な意味を、
改めて別の言葉で説明するのは思いのほかに難しい…

なぜ難しいのかと言えば、それは説明の過程で、
麻雀に対する主観論のようなものを展開することになりかねないからだ。
私としては教示的な麻雀論などはおよそ無為なものと思っているわけで、
意に染まない作業はできれば避けたいのだが…難しい。


私が「一局の正解」という表現に込めた意味は、
その一局の開局と同時に牌山の構成によって決定されてしまう究極の結末…
正解として与えられている既定の終局シナリオという意味なのだが、
正解という言葉の使用が誤解を招いてしまうのかも知れない。

表現の至らなさで、新たな誤解を生むだけかもしれないが、
一応の説明は試みよう…

麻雀への関わり方は各人各様、千差万別に違いない。
だから様々な捉え方、理解の仕方があるだろう。
それで良いと思う。私はそう在るべきだと思っている。
麻雀は人間が創った遊技であり、遊びの一種に過ぎない。
遊技は楽しむためにある。楽しくなければ意味が無い。
そして、楽しみ方は人によってそれぞれ異なるものだ。
他人の遊技の楽しみ方について、外野から、いや内野だとしても、
とやかく言うべきでは無い… 言えるものでもないだろう。

麻雀にはルールがある。事前に定める不文律も含めた遊技規則だ。
それが、ゲームの総則であり麻雀のすべてなのだ。
あとはゲームに参加するかしないかの選択をすれば済む。
その選択だけが麻雀における唯一の自由な選択なのだから。

麻雀の基本原理は絵合わせである。
原理は単純だが、他のどんなゲームにも類を見ないような、
不自由な条件下で争われる理不尽な絵合わせゲームだ。

与えられた不平等な配牌から、定められた不測の自摸牌を使用して、
絵柄の組み合わせの完成速度と評価点を競い合うわけだが、
組み合わせの取捨選択はそのときに与えられた手牌の中でのみ許される。
一見自由ともみえるポンやチーも、自手の牌姿からの選択でしかない。
手牌の構成にその対子があってのポンであり、塔子があってのチーなのだ。
事前に料理の献立は選べない。配達された材料で調理するしかないのだ。

雀歴は問わない。麻雀の種類やルールの違いも問わない。
あなたが打つ麻雀で、あなた自身の体験を振り返ってみて、
あなたが明らかにミスを犯したと自覚するのはどんな時か?
そして、それはあなたの麻雀にどれ位の頻度で起こっているのか?
思い起こしてみて欲しい。
ミスに対する認識の差はあるが、通常の感覚の持ち主であれば、
記憶に残るほどの明らかなミスは意外に少ないと思うはずだ。
それは当然だろう。
与えられた配牌、規定の自摸、麻雀の様々な不条理性を訴えれば、
与えられた手牌での勝敗の帰趨にも、
与えられた結果という情状酌量の免罪符を貼れるからだ。

人事を尽くして天命を待つ…という思考、いや信仰か…
与えられた条件で聴牌を果たした。ミスを犯してはいない。
人事は尽くしたのだ。あとは天命に委ねる…
結果、勝負に負けた、運が悪かったという判定だ。

いいだろう、間違いではない、納得の仕方、諦め方は色々ある。
結果に納得できずに苛立って後を引くよりは格段にいいだろう。
しかし、反省はすべきだ。勝負は結果が総てなのだから…

問題はその結果が本当に必然的結果なのかということだ。
その点を第一に考察すべきなのだ。
結果を棚上げにしての選択の是非論などは本末転倒の空論でしかない。
自己弁護の免罪符などは何枚重ねても尻拭いの便所紙にしかならないのだ。

自問すべきはひとつ…必然性の有無。
麻雀には振り込みさえ正解になる場合もあるわけだが、
その辺の枝葉の説明は今は抜きにする。
つまりそこで「一局の正解」を踏まえた検証が不可欠となる。
そこから不条理への配慮…彼我の運量への対応を意識できるからだ。

一局の事後検証で、どう打っても聴牌さえ出来ないという牌譜もある。
逆に、河の捨て牌を加えれば何度も和了っているといった牌譜もある。
選択を変えていれば役満を和了っていたという牌譜さえ稀ではない。

牌の所在、巡り合わせが悪ければダブリーだろうと和了れはしない。
巡り合わせが良いとなれば、配牌や第一自摸で和了ってしまう。
和了を目指した手作りも、和了れなければ意味が無い。
聴牌速度や聴牌形の有利も不利も関係無い。

麻雀はその牌がその時そこに出現しなければどうにもならないのだ。
手作りも和了も究極のところは牌の巡り合わせによって支配されている。
だから、阿佐田哲也の言う「運が10割」という表現が正論になる。

麻雀とはそういうゲームだ…

麻雀では牌と人との巡り合わせを…
運の要素を抜きにしては何も語ることはできない。
運を肯定しての戦術理論などは無為であり、否定すれば破綻をきたす。
私が人間を無視した短絡的な理論書や戦術書の類に背を向けるのも、
こと麻雀に関しては、そういったものは新たな観念論の展開でしかなく、
新規のオカルトの生成にしかならないと思っているからだ。

長いので、つづく…

一連の流れとしては一局の正解にかかわる「流れ」という表現の
私的考察なんぞを試みます…

あ、追記は戯言ですから、読まないほうが良いかも。 【Read More】

テーマ:麻雀 - ジャンル:ギャンブル

プロフィール

amou0

Author:amou0
H.N: 天羽 礼
年齢:知ってどうする?
職業:まとも、だから退屈で
   遊んでるようなもの
BT:AB型の二乗
生息地:深山幽谷&ネオン街
近況:迎えをまっている。
   出来れば天国から
   シースルーの羽衣の
   天女さまを希望…

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